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南島町に学ぶ

パソコン通信PC-VANの第三世界ネットワーキングに
アップした内容などを再構成した文章です。
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目次


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1992年2月2日。

Nanthotyo Map1  紀伊半島を東西に走る紀伊山地を東に辿ると、伊勢新宮のある志摩半島につきささるように消えていく。そのあたりに標高778mの七洞岳があり、その山峰のふもとに注連指(シメサス)がある。
 注連指はちょうど志摩半島の付け根の真ん中に位置し、南北どちらでも海まで20kmほどの距離である。北へいけば、伊勢市へ流れる宮川を越えて、松坂市を経て伊勢湾に達する。南へいき、七洞岳を越え、さらに藤坂峠を越えると熊野灘に面した漁村に出る。南島町である。

 南島町の一番西側に古和浦がある。古和浦の西には姫越山があり、そこをさらに西に越えると錦、長島へと続く。姫越山を海側から迂回する道はなく、したがって姫越山の海側には、たどり着く道もない無人の浜がある。そこが、芦浜である。
Nanthotyo Map2 

 古和浦漁協は、南島町の中でその芦浜にもっとも近い漁協であり、南島町の中では唯一、芦浜沖に漁業権を持つ漁協でもある。「原発絶対反対」と書かれた漁協の建物の前に車を止めて掲示板をのぞくと、漁協総会について一枚の紙に「漁業規則を改定する審議を行うことを可決した」というような意味合いのことが書かれていた。
 古和浦の漁港に車を止めて、外へ出た。推進派が増えてきたとはいえ、基本的にはまだまだ原発反対を表明している土地である。道路ばたにも、漁港内にもあちこちに原発反対が書かれている。
 ぽつんと立っている街灯以外は明りもなく港内の海は真っ黒に沈んでいる。私の見たかった海の色は黒々としか見えなかったが、そのかわり、天には星が広がっていた。雲が少し出ていたので、満天の星空とはいかなかったが、それでも、神戸では7×50の双眼鏡でも決して見ることのできなかったオリオンのM42大星雲が手持ちの小型双眼鏡の中でオレンジ色に輝くのが見えた。

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1992年2月3日。

 津での集会で、北村博司さんは、ジャーナリストらしく、わかりやすく現在の芦浜について説明してくれた。なぜ、今、SOSなのか。
 芦浜自身は紀勢町に属し、芦浜の西隣は紀勢町の錦という漁村になる。紀勢町で主な漁村は錦のみである。
 芦浜の東は、南島町の西端の古和浦になる。南島町では、全部で7つの漁村があり、西から順に古和浦、方座浦、神前(かみさき)浦、奈屋浦、贄(にえ)浦、慥柄(たしから)浦、阿曽浦である。このうち、人口が多いのは古和、神前、阿曽の3つで、役場は中央の神前にある。
 とりあえず、電力会社がいま、始めたいことは事前環境調査のうち、海洋調査である。これを行うためには、調査海域に漁業権をもつ漁協の同意さえあれば法的には可能だ。芦浜沖に漁業権を持つのは、西隣の錦漁協と東隣の古和浦漁協の2つである。錦漁協ではすでに調査に同意している。のこるは、古和浦だけである。このために古和浦に対する集中した原発推進攻勢がかけられているのだ。
 いままで、日本では環境調査が行われると必ず原発が建設されてしまっている。それは、環境調査を行う際には多くの電力会社の社員などが、地区に入り込み、雇用も発生するため、精神的にも経済的にもすでに電力会社の掌中となってしまうのだそうだ。
 ただし、南島町の場合、たとえ古和浦で一時的に推進側が上回ったとしても、他の6つの浦では依然として確固とした原発反対であるため、町として原発を受け入れることは考えられない。したがって、今までの例に反して、調査が行われても原発を阻止できることは十分可能である。ただ、古和浦の動向が大きな山場であることは事実であり、それだからこそ、SOSなのだ。
 南島町に7つの浦があることは、これまでの原発から海を守る闘いのなかで、とても重要な意味があったそうだ。一つの浦がくじけかけても、他の浦がそれをはげまし補うことができる。そうやって、この29年の闘いを続けてきたのだ。そういった意味では、一町一漁協である紀勢町の錦漁協とは対象的である。

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1992年3月29日。

Kanban  古和浦の町は海と山と川に挟まれているため古和浦のまちなみへいくためには、3つの入り口しかない。ビラまきにいった私達を迎えていたのは、推進派と思われる方々だった。
 私は、もう一人の方と二人で着いたのだが、着くなり「なにしにきたんじゃ、われ!」とどならた。しばらく、やりとりがあった後、私はバイクで駆けつけた人に体当たりされ、ぐいぐい押されて川縁のガードレールに押し付けられた。私は押されても自分からは退かなかったので、「わりゃ、やるんか」とどなられた。
 落ちると、5mくらいあるので、恐怖がよぎったころ、別の方が止めにはいったのでほっとしたが、残念な気もした。
 その後、私は、ほとんどしゃべらず、もう一人の方が主に受け答えをしていたのだが、それは、私が、こういった展開をまったく予想してなかったことと、推進派と思われる方々の発言に反論する「理」が私にあるという自信がどうしても持てなかったからだ。
 2:3(3が私達)ぐらいの人数比でとりかこまれた私達は古和浦の町へ入っていくことができない。そのまま、2時間半ぐらいごたごたしていてから、結局ビラまきはできずに終わった。

 私は、もう、何度も古和浦に来たが、まちがいなく、今回が、もっとも私にとって有意義だったと思う。ほんとにそう、思う。しかし、そう思うことが、すなわち、古和浦の人々に対する申し訳なさ、うしろめたさ、のようなものを私は感じる。だって、ほら、おまえは、古和浦の人々のことを考えて、来たんじゃないじゃないか、自分にとって有意義かどうかが大事なのか、と。

 どなられたり、こづかれたり、押されたりすることは、ほんとに平気だ。テント村でも鍛えたし。しかし、「なぁ、たのむから、帰ってくれや」といわれるのはつらい。「こいつらはなぁ、俺らが倒産したって、なんにもしてくれへんのやぞ」という言葉は本質をついていると思う。
 「おまえら、なんで中電が土地買う前にけえへんかったんや」といわれたときには私は思わず叫んでいた。「そこは、その通りだと思います。それは申し訳ないと思います。」
 原発に関すること、原発に関する今後のことについては、推進派の方々の論理は崩れる。しかし、漁業と都市の関係といったような側面から考えれば、彼らの発言は基本的に正しいと私は考えている。

 ごたごたしているとき、川の反対側を歩いていたおばあさんが、私達のほうをむいて「ごくろうさまです。」と頭を下げていかれた。私は落涙した。

 中林勝男著「熊野漁民原発海戦記」に収められている石原義剛氏作の「芦浜原発反対闘争年表」の末尾にはこう記されている。
 「『だめなものはだめなのだ』。”日本のため”ではなく南島のためで十分だ。頼りになるのは自分自身しかいない。政治家も役人も学者も、同じ漁民でも、結局誰も助けてくれない。自分の道は自分で進む以外ないことだ。日本の政治も経済も、戦後三十数年間、弱いもの貧しいものを犠牲にして、成長を続けてきたことが最近はっきりしてきた。東京から遠く離れた僻遠の地と、そこに住む農民漁民は真っ先に切り捨てられた。」

 この一節は、初めて読んだときから気にかかっていた。これは、1963年から始まるいわゆる一次「海戦」の勝利後に書かれたものだ。このとき、漁民の人々は、自分たちで勉強し、自分たちで反論し、自分たちで闘ってきた。都市の者で助けるものはいなかった。その中で、彼らは勝利したのだ。

 今、推進派と呼ばれる人々の中には、当時、先頭にたって原発を阻止した人々も多い。私達のビラ配りの妨害を、「言論の自由を妨げる」、「民主主義に反する」と私が批判できなかったのは、彼らこそもっとも非「民主的」な扱いを受けてきたのではないか、という思いを捨て去ることができなかったからだ。

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1992年6月27日。

 錦峠からカーブの続く道を降りて古和浦に出た私達の車は、東へ向かい神前浦の民宿南島洋に着いた。海山の幸の食事を堪能した私達は、方座浦で行われている浅間神社のお祭りを見物にいった。
 地元の人に聞いたところによると、「浅間祭」といわれるこの祭りは、200年続いているもので、双子のお姫様の器量のよくない妹をなぐさめるために、男衆がわざと美しくない化粧をして、謡を謡いながら踊るものだということだ。
 実際の男衆の化粧は、確かに、美しいというものではないが、星や幾何学模様を描くなど、斬新で今風に思えた。大阪で祭りというとつきもののタコ焼きなどの屋台をみかけなかったのも、「祭り」の本当の姿を思い出させてもらった気がする。
 その後、南島洋では、名古屋からきたグループといっしょに、地元の方を迎えて交流会が開かれた。地元の方が語る、「本当ならもっと前に原発なんか追い返すべきだった。そうできなかったことを申し訳ないと思っています」という言葉に涙を落としそうになる。あえて、謝るとするならば、一次産業の衰退を加担・放置し、原発を追い返す力を南島町から奪っていった、私達都会の人間の方だと思うからだ。

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1992年6月28日。

 慥柄浦の東端にある会場へ移動すると、まず、いかだをつくり始めた。いかだのままでは運べなかったので、作るとこからやんなきゃいけないのよね。
 地元の人々がトラックで、りっぱないかだを運んでくるのを横目でみながら、しこしこと発泡スチロールをガムテープで張り付けていると、だんだんと不安が込み上げてくるのだった。「ほんとうに浮くんだろーか」おまけに、当初の設計図はバンバン変更されて、3本の竹は2本に、3mは2mに、ほとんど別物。行き当たりばったりな奴らである。
 作り上げてみると、意外といかだらしく見える。いちおうは、浮く。しかし、私はまだ、信用してなかった。さっきまで竹と角材と発泡スチロールだったのだから、次の瞬間に竹と角材と発泡スチロールに戻っても不思議じゃない!
 約1.7kmのコースのスタート地点は200mほどの沖合いだ。あそこまで、たどりつけるだろうか、と思っていたが、4人が乗り込んだノーニュークス号は、遅いながらもなんとかたどりつけた。スタートまでの間、私はいかだ上でギターを弾き、歌った。へへっ、いかだにはギターをのっけてたんだもんね。
 海からみると、会場の岸の人々は小さく見えるだけだ。右手には南島大橋が大きく迫る。あっちこっちにプカプカ浮かんでいるいかだたちに向かって歌を歌いかけていると、私達はこうやって海を渡ってきたんだなぁ、と思う。アンコール!アンコール!といってくれるので、調子にのってもう1曲歌っていると、おっと、スタートだ!
 ギターを櫂に持ち代えて、漕いでいくが、なかなか進まない。岸に近いところでは進んでいるのがわかるが、離れると比較物がないので、まるで止まっているように感じるのだ。他のいかだは、どんどん追い抜いていくが、私はスピードよりも、わずかでも進みつづけていることに感動した。「ひょっとすると、完走できるかもしんない」
 コースは、会場の沖合いを出発して、すぐ目の前にある島を一周してくるものだ。島の手前には南島大橋、向こう側には阿曽浦大橋がかかっているので、両方の橋の下をくぐっていく。 橋を二つくぐって、あとは、岸に帰りつくだけ、という時点で、ノーニュークス号の後ろに2漕はいたはずだった。よし、ビリは免れた。と思っていると、ぼっぼっぼっと音がして漁船が追い抜いていった。漁船からはロープが伸びていていかだが繋がれている。リタイアしたのだ。しばらくすると、もう1漕、ぼっぼっぼっ漁船に曳かれていった。と、ゆーことは、??ビリだ!!
 しかし、ビリという言葉はだれも口にせず、代わりに「おお、トリやんけ」と4人で喜び合った。自分勝手な奴らである。
 ゴール前、10m。ふたたび私はギターを持って歌い始めた。南島町への想いを託した歌だ。


南島町にて

Ashihama 山は海をつつみ 豊かな命をはぐくむ
そこに生きる人々を 見守るように
ここをおとづれる 私のよろこびは
忘れた大事なことを 教えてもらったようだ
 船をだせ 海に生きるものよ
 電気の灯よ 原子の灯よ
 海の青さにかなうまい
都会に生きるものは 日々の糧を金でかう
かけがえのない命と 思うこともなく
命をまもることを まかせっきりにしてきた
私の心が この海の風でひらく
 手をつなげ 闘うものよ
 金の力よ 権力よ
 我らが力にかなうまい

 船をだせ 海をまもるものよ
 電気の灯よ 原子の灯よ
 命の歴史にかなうまい

 声を上げろ 未来をまもるものよ
 金の力よ 権力よ
 海の歴史にかなうまい

 岸に着くと、拍手とアンコールの声が迎えてくれた。某佐藤氏が、「アンコールいけいけ」とそそのかす。岸に上げられたいかだの上で、もう1曲「テント村にて」を歌った。お調子乗りな奴らである。

 閉会式のあいさつで竹内純一氏は、「南島町のことを知って下さい、来てください、遊んでいって下さい」と語った。今年の2月から私は十回ほど、南島町に来たが、今回は本当に楽しかったし、南島町の人々ともいちばん触れ合えたと思う。通い慣れた道は近く感じるように、南島町を「遠いところ」にしないこと、そして、南島町を見守っている人間がいることを伝えることも、芦浜を守るために私達にできることの一つだろう。
 この文章の途中で、あえて謝るならば、と私は書いたが、実はその何万倍も謝ってもらわなくてはならない巨大な犯罪行為を行っている者・県や中電が目の前にいる。その者に対峙する仲間として私達は手をつなごう。まずはその者たちに、自らの非を認めてもらわなくてはならないのだ。

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1993年1月17日。

FLAG  カマボコのようなドーム型の建物の前で、七人ほどの若者たちが高さ6〜7mもある旗を振っている。旗竿どうしが触れ合ってカチカチと音を立て、まるでその旗から沸き起こるように風が吹く。しかし、その風は、荒野を吹く風ではなく、沙漠を吹く風でもなく、もちろん原発の爆風でもない。
 なぜなら、その若者達の前を次から次へとあふれるように歩いていく人々が、その風をまとい、運んでいくのだから。
 そして、その風は、30年前からこのかた、この南島町に吹かなかった日はなかったのだから。
 だれもが、この日のことを覚えていくだろう。だれもがこの日の風を覚えているだろう。しかし、私は、この場にいなかったあなたにも、この風を覚えて欲しいのだ。  その風の名は「あしはまにげんぱつはいらない」

 今年は、ちょうど30年目になる。南島町が原発に襲われてから。1963年12月1日の新聞の朝刊「中部電力の原子力発電所 南勢の三町を候補地に」という見出しが始まりだった。
 その後、30年間。南島町は原発を拒否しつづけてきた。真珠養殖の好景気と暴落、はまち養殖事業の成功と値下がり。政策に由来する慢性的な漁業不振のなかで、漁民達はあえぎ、しかし南島町は、原発を拒否しつづけてきた。
 南島町にとって、たのみの綱は、自分自身だった。私達都会の人間は、何もなしえなかった。それどころか、一次産業の衰退へと手を貸していた。そのために、南島町は苦しんできた。そのために南島町は原発をつきつけられてきたのではないか。
 反対集会の会場は、漁港に面した広場だ。前日に大阪から着いた面々が、9時ごろに会場に着くとすでに大勢の人々が集まってる。定期バスの便は少ないためか、観光バスを仕立てて参加者が集まってくる。バス正面の表示板をみると、阿曽浦、方座浦など、南島町内からである。
 海に面しているだけあって、寒風が通り抜けていく。
 参加者は、最終的に3、500人と発表される。私にとってはこれまで参加した集会の中で最大の人数である。もちろん「動員」などない。私達を含めて、市民グループは百人にも満たない。他はすべて地元南島町の人々である。人口一万人弱の南島町で、この参加者数である。これが、県や中電が、「一部の町民と外部のもの」とよぶ人々だ。なるほど、あなたたちにとっては、自分の思い通りになる者だけが、町民であり、それ以外の者は人数に関係なく、「例外者」なのだろう。金で動かざるを得ないほど、一次産業を追い詰め、自分の思い通りに動かす、その思惑にしたがわないものは、認めることができないのというのか。
DEMO  デモは、往復一qほどの道のりだ。私達も、南島町の人々の間に入れてもらう。人数が人数だけに出発しだしても、全員が出るまで時間がかかる。伝統ある南島町の原発反対の歌をうたったり、「あしはまげんぱつはんたーい」と声を上げながらデモは進む。デモをする南島町の人々は、びっくりするほど若者が多く、また女性も多い。私達、市民グループの方が平均年齢ははるかに高いだろう。横断幕には、「芦浜原発はんたい」から「三十年の歴史をむだにするな」など、思い思いの文字が書かれている。
 デモの目的地・折り返し点は、新築された中電の南島町営業所だ。数億円かけたといわれるその施設は、料理教室やショールームを備える平屋のドーム型の建物だが、ネオンを付けたら、パチンコ屋としか見えないだろう。日曜であるためか、中電の人間と思われる者は誰もいない。
 もっともでかい旗をもって、先頭をいっていた若者たちが、ドームの玄関前に陣取り並んで旗を振る。私達は、その前を叫びながら通っていく。30年前のいわゆる一回戦を闘った人々は老年となり、二回戦を闘った人々は壮年である。そしていま、新しい世代が新しい闘いを担い始めたのだ。
 いつの間にか風は止んでいた。雨かといわれた天気だったが、空は青く広がっている。
 デモ後、昼食を食べていると、南島町の方が挨拶にみえた。昨日の夜もいらしてくれた方達だ。若者達も、さわやかにあいさつしていってくれた。

 午後からは阿曽浦へビラ入れにいく。ビラの内容は、今、制定しようとしている、芦浜原発住民投票条例についてである。
 ビラを一軒一軒あいさつしながら入れていく。今朝の集会に行ったという人も多い。ありがとう、といってくれる。この町が本当に、原発を望んでいないことがよく分かる。このころになると、空はすっかり晴れて、おだやかな午後になった。
 私達は、本当にたおやかな、あたたかい気分で、帰り道をいくことができた。こんなに元気になれる集会が、かつてあっただろうかと思う。

 南島町の人々は、自らの手で、確実に芦浜原発の息の根をとめようとしている。そして、彼等には、確かにそれができると思える。しかし、都会に住むものは、そのことに甘えてはならない。自分自身が加害者であること、自分自身の暮らしかたが原発へと繋がっていること、そして、南島町の闘いが意味するものを考え、私は、そこから出発することにしよう。そして、そのことを考え続けるためにも、これからも南島町を訪れるだろう。
 南島町は新しい窓を開け、声を上げている。
 都会に生きるものよ、南島町の声を聴け。

南島町の声を聴け

言葉はいつもいつのときでも
          心につながっているけれど
巨大なまつりごとを司るやつらには
           それが感じられなかった
心の想いを ありのままに
        口にすれば きっと伝わるはず
だけどもそんなことも
 いや心さえもきっと売り渡してしまったのだろう

  まつりごとをなそうとするものよ
         南島町の声を聴け
     人々に たくされしものよ
         南島町の声を聴け

山道を行き、やっとの思いで
         芦浜の地におりたったときは
おしよせてくる波の巨大さに
          自分の力の小ささを知った
どこでもいつも 僕達は
   自分の思い通りになると思ってきたけれど
大きなやさしさに つつまれるように
       僕達ははぐくまれてきたのだろう

 心を見つめるものたちよ 南島町の声を聴け
 命を見つめるものたちよ 南島町の声を聴け
 都会に生きるものたちよ 南島町の声を聴け
 命をむさぼるものたちよ 南島町の声を聴け

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1993年7月24日。

 南島町で7月25日に行われる予定だった、「’93南島大橋いかだレース」は7月24日朝、台風の影響を考慮して延期となり、前夜祭改め、残念会が行われた。
 会場がとびきり素敵。慥柄浦の廃校になった小学校跡の建物だ。最近新しく立て替えられた郵便局の仮舎として使われたことがあったので、内部はきれいに塗られて床もカーペットが敷かれている。
 よく、しゃれたミュージシャンのアルバムのジャケット写真などにでてくるような、平屋の校舎で、小さな運動場と小さなプールもある。教室はおそらく2部屋分くらいだろうか。校舎前にあった石像は、二宮さんとかじゃなくて、子供が空を指差している図で、プレートには希望と書かれている。

 残念会は、会費千円で、飲み放題、食い放題である。食事は、三交百貨店からわざわざ出前コックさんが来て、焼き鳥やラーメンから、フライドポテト、アイスクリームまである。これが食べ放題なのだ。(私は歌うから、と食べるのを我慢しているうちに、ラーメンを食べそこなってしまった。悔しい。とっても。)
 ビールは、大きな発泡スチロールの箱(魚を入れるやつだ)に氷と共にごろごろしているのをとってきて飲む。
 グループ紹介、早い者勝ちカラオケ大会などの合間に2回に分けて、私は歌わせていただいた。

 正式にはお開きになってからも、なんだかんだいいながら、飲んでいた。その晩は、その小学校に泊まることになった。
 スタッフの人達が帰るのを、小学校の玄関テラス(このテラスがまたかっこいい。となりのトトロのさつきやめいの家の、柱がくずれかけたテラスを覚えているだろうか。あんな感じ。)から歌で見送る。このころには、ようやく歌詞が覚えられてきた「南島大橋いかだレーステーマソング」を歌う。このときが一番うまく歌えた。


南島大橋いかだレース テーマソング

南島町に集う   いさお知るものよ
熊野灘をのぞんで いかだを出せ
自分の力で    自分の腕で
自分の知恵で   海を行け

はるかな昔に あらたな世界を求め
        我らはやってきた この土地に
自由と 希望と 未来と 栄光と
           始まる世界を担うために

海を越えて    我らはやってきた
忘れた海の言葉を いま作りだそう
海を忘れて    生きゆくものも
この海の叫びに  よみがえらん

はるかな昔から 糧を分け合い
        我らは生きてきた この土地で
自由と 希望と 未来と 栄光と
        続いていく世界を 守るために

力を合わせて  声をそろえて
知恵を出し合い 海を行け
みんなの力で  みんなの腕で
みんなの知恵で 海を行け

南島町に集う   いさお知るものよ
熊野灘をのぞんで いかだを出せ
自分の力で    自分の腕で
自分の知恵で   海を行け

 夜、遅くまで、私達に付き合って泊まってくれることになった南島町の漁師でもあるいかだレース実行委員会の人と、大阪の連中とで飲んでいた。
 残念会もそうだが、こうやって南島町の人と話し合えるのがなによりありがたい。
 日本の一次産業を柱にする町の例にもれず、南島町も人口が減りつづけ、苦しい状態にある。だけど、外部資本の導入により活性化をめざすことや、安易な施設の建設により、たくさんの人をこさせさえすればよい、というような村おこしはしたくない。
 南島町の人ははっきりと言う。南島町の持っているものを、失ってしまうような村おこしはしたくないという。
 南島町は正しい。
 南島町は正しい。
 問われているのは、都会に住むものだ。南島町は、私達に、問いつづけているのだ。  ここの良さがわかるか
 ここを訪れる気があるか
 漁業を守る気があるのか
 と。

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1993年7月25日。

 次の日の朝、なぜか、5時に目が覚めた。寝ているのがもったいなくなって、起きだした。こんな気分が前にもあったな、と思ったら、関電前テント村に泊まったときと同じ気分だ。

 浜まで降りてみると、すごい波が防波堤をたたきつけている。いかだレースのコースには、海中から少し岩が顔を出しているところがあるのだが、そこでは10メートルくらいの波しぶきが立ち上っている。
 海さえみなければ、今日は十分いかだを出せそうに思えるのだが、それは、都会の者のあさはかさというものか。
 あの波にまきこまれたら、ひとたまりもない。延期は正しい判断だったのだ。

 さわやかな青空の下をすごい勢いで雲が流れている。台風周辺の空だ。
 うぐいすが歌い、とびが3羽旋回している。
 気に入った小学校のテラスで、ギターを持ち出してきて、アルペジオで静かに歌う。思い出すように、ゆっくりと。

南島町の風に吹かれて

 南島町の 風に吹かれて 釣り糸を たらせば
 ゆるやかに ながれる時に 心がなじんでく

暗い空のしたか 明るい照明のしたか
作られた世界のなかで 生きるものがいる
いつの間にか忘れていたね 本当の空の青さを
いつの間にか忘れていたね 吸い込まれる海の色を

 阿曽浦の 風に吹かれて 大橋をくぐれば
 橋を渡る人と かわすおはように 心が開いてく
 慥柄浦の風に吹かれて 大きな魚を釣り上げれば
 ほんとうの喜びを 忘れてたことに気がついた
 贄浦の 風に吹かれて 釣り船が進んでく
 ここでは時間は 時計じゃなく 命がきざんでる

都会の仕事は 目の前のことだけを考えて進んでる
日々移り変わる 世界だから 変わらないものを
                  見逃してた
だけども僕らに 大事なことは
           ほんとうに 遠い昔のこと
だけども僕らに 大事なことは
          ほんとうは 遠い未来のこと

 奈屋浦の 風に吹かれて 釣り糸をたらせば
 都会暮らしで忘れてた 心の隙間が埋まってく
 神前浦の 風に吹かれて 南島町を見渡せば
 抱くように広がる山並みに
          守られていることを感じた
 方座浦の 風に吹かれて 祭りの中を歩けば
 生きることを祝う 祭りの心に
            初めて触れた気がした

 古和浦の 風に吹かれて
 命の歴史を思い起こせば
 明日からの自分の 暮らしを
 もう一度問い直そう
 芦浜の 風に吹かれて 海亀と話せば
 人の力の 強さと脆さに 心がきしむ
 南島町の 風に吹かれて 釣り糸をたらせば
 ゆるやかに ながれる時に こころがなじんでく
 南島町の 風に吹かれるために
           またここにやってこよう
 崩れかけてた この心が
          この風で よみがえるから

 古和浦漁協の正面にいくことさえできなくて、片隅から見守るしかなかった日があった。あのころは、南島町で歌を歌うなんて思いもよらなかった。でも、あの日から、私は、私の思いをいつか南島町で歌うと決めていた。
 私は、いま、南島町で歌っている。
 私は、いま、南島町で歌っているのだ。

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1993年8月22日。

 先日、台風4号のためにいったんは中止となった南島大橋いかだレースは、今日、無事開催された。
 こないだとはうってかわって、いい天気だった。帰ってからきくと神戸は、朝と夕方雨が降ったそうだが、南島町は一日いい天気。慥柄浦から阿曽浦にかけての海もベタなぎで、いかだレース日和である。

 会場をギターかついで歩いてると、おう、1曲やれぃ、といわれたので、調子にのってやってみる。つぎつぎに声がかかるので、だんだんフレーズを短くしたのだけど、結局4曲分くらいも歌ってしまった。

 名古屋のきのこの会の艇が、参加者が少なかったので、乗せてもらった。
 いかだから帰ってくると、成績集計の間、壇上でマイクを使って歌わせてもらった。だいぶくたびれていたけれど、おかげで緊張しなくて済んだ。(そんな余裕がなかったのだ)

南島町においでよ

南島町においでよ 海の幸があるところ
南島町においでよ 山の幸があるところ
 細いトンネルを抜ける
 道はくねくねけわしいけど
 だから自然が守られてる
 だから命が息づいてる
南島町においでよ 命の歴史があるところ
南島町においでよ 海を守る人が住むところ
 山は海を包んでる 海は命を包んでる
 だからほんとの豊かさが
 だからここにはあふれてる

南島町においでよ 闘う歴史のあるところ
南島町においでよ 未来を守る人が住むところ
 都会の者が忘れてた いのちの糧をはぐぐむこと
 だけどここで 教わった
 だからここが忘れられない

 いかだレース会場を歩いていると、あいさつできる人がチラホラいるのがとても嬉しい。
 とても嬉しい。
 しかし、古和の人と会って話をすると、嬉しがってばかりもいられんなぁ、と思うのだった。

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1994年2月10日。

 南島町の人々が動くのは、いつも動かざるを得なくなったときではないか。
 南島町から世界を見ると、名古屋や津や大阪などの都会よりも海が見える。流れる潮は、アジアの南からそして沖縄からの流れだ。遥か昔から豊かな命をそれは運んできた。愚かな者たちのくだらない企てに何故関ることがあろう。
 南島町が動くのは、都会の者が失った、ほんとうに大事なものを、守るものを持っているからだ。
 互いの肉をむさぼり食っている都会に、そんな風が吹くのなら、私は風に吹かれるほこりになろう。風に鳴る草になろう。
 そして、いのちを見渡せる人々の眼に見える、風向きを教えてもらおう。

 11時に名古屋の白川公園に着いた私は、まずその人数の多さと整然と並んだ人々の列に圧倒された。まだ集会開始まで1時間もある。
 12時過ぎに集会が始まるころには、ますます人数が増えている。この日のデモは、結局2000人参加と伝えられる。昨年南島町で行われ、3500人が参加したデモと変わらぬ迫力だ。あのデモは、その後住民投票条令へとつながっていったのだった。
 私達、市民運動の人々は名古屋、大阪、さらに東京からも多くの人々がかけつけたけれど、南島町の人々からすると僅かな人数にすぎない。
 原発反対の会の小西さんを始め多くの方があいさつを続ける。誰も、たてまえや借り物の言葉でない、自分自身の言葉で語りかける。
 この日は、原発反対の会から、中電に対し、抗議書を手渡し回答を要求することになっている。

 デモが始まっても、最後尾にいる私達が動きだすまで何十分も時間がかかるほどだ。動きだした列のなかで、私は、マスコミが近くにいないことを確認してからシュプレヒコールの合間に歌った。
 今回のデモは、南島町の人々が決断し、行動したことである。私達都会の人間の力は及ぶべくもない。しかし、マスコミの報道では一部分が拡大して伝わるおそれがある。そういったマスコミの対応に南島町の人々は何度も煮え湯を飲まされて続けてきた。このことには注意してしすぎることはない。

 中電前。南島町の人々はおもいおもいの言葉で、中電に向い、心の叫びを上げる。私は中電のしてきたことを思い出していた。
そして、1993年。中電は、古和浦漁協に環境調査受入れを条件に2億円を預託した。まだ、原発反対決議を翻してもいない古和浦漁協に対して。これが賄賂でなくてなんであろう。金で人々のくらしと心を踏みにじったのだ。

 人生の大半をいわれなき原発の鎖のもとに生きる人々。親族が敵味方に分かれ、確執の中で毎日を送る人々。愚かな政治家の船での出来事に牢獄に繋がれた人々。
 思いのたけを叫ぶ人々の、しかしその心のしこりはこの叫びの、何倍あるだろうか。

 デモから白川公園に帰ってくると、中電に抗議書を渡しにいった方たちはまだ帰ってきていないという。解散しようとした丁度そのときに、小西さんたちは戻ってきた。
 重役を出すようにいったのだが、出てこなかった。今日、始めて交渉したわけじゃなく、数日前から申し入れをし、重役を出すよう伝えてあったのだが、結局、立地部部長が最後まで対応した。回答を要求したが、はっきりしたことをいわない。ラチがあかないので、回答を発表するように申し渡して帰ってきた...
 くやしさを隠し切れない様子で小西さんは語る。

 集会が終わった後、公園内で記者会見が行われているのを私は聞いていた。
 「こっちがなんぼいうても、おんなじことしかいいよらんサァ。ラチあかんで帰ってきたんや。わしら、30年のうらみはぜんぜんおさまってないし、回答が納得いくものでなかったら、何回でもくるしィ、いうてきた。」
 小西さんは重い表情で語る。記者の質問に答えて、こうも語った。
 「南島のもんは、南島の海で生きて行ける。孫子にまで残していく海を、30年間守ってきた海を、手放せるはずがない。」

 中電は長年、南島町を南島町民を、見下し続けてきた。3候補地を競り合わせ、金をちらつかせ、時には無理矢理金を握らせて。南島町の抗議の声には耳も傾けず、電力業界紙に軽率な発言を繰り返す体質は、一次産業を担う者たちへの無知と侮蔑に満ちている。
 今日の対応もこれまで通り、愚かさをみせつける対応だ。いったい、いつまでこのような対応を続けるつもりなのだろうか。
 いや、私達は、いつまでこのような愚かな対応を許し続けていくのだろうか。
 私には、中電のこのような対応は、私達、都市に住むものの一次産業への思慮の浅さを映しているように思えてならないのだ。信じられないような中電の対応は、都市に住む者の信じられないような、一次産業への認識と似通ってはいないか。
 中電を許してしまっている私達一人一人が、南島町の声を聴かなければならないのではないか。
 南島町は立ち上がった。そして、次に立ち上がるのは私たちの番である。

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