生きてます41
再開します。
1年以上、私の神戸からのリポートは休止状態だった。それは意図したことではなく、仕事があまりに忙しすぎたことが原因だった。私の仕事はソフトウェアの製作であるが、その関係でインドへ出張へいくことになり、言葉の問題を超えてなんとか交流をはかろうと私のほとんどの時間をそのことに費やしてきたのだった。
http://www.sanynet.ne.jp/~hawai/india/index.shtm
また、秋にノーニュークス・アジア・フォーラムがフィリピンで開催され、海外づいていた私は、インド行きの合間に、それにも出席してしまったのだった。
http://www2a.meshnet.or.jp/~nonukes/
まあ、ホームページだけみてもかなりいろいろ作成していたわけで、本家のほうがおろそかになるのも無理はなかった。
が、そうした状況を超えていく動機もやはり海外からもらうことになった。
インドネシアの友人
ジャリス氏はインドネシアの環境保護団体GITA PERTIWIのメンバーで、神戸で行われるCOP3の前イベントに出席するために来日したのだった。私は彼の友人に託すものを手渡すため、彼が到着した朝に会ったのだが、その日のスケジュールが空いているため、その日、神戸を案内することにした。
なにせ突然だったし、最初、私はハーバーランドあたりを案内すりゃいいかな、とか軽く思っていたのだが、まず私の家でお茶を飲んでいると、つれあいが「ろっけん」に行こうと言う。そうだ。そうだな、「ろっけん」に行こう。私もそう思った。
英語は達者だが、海外に出たことがほとんどない彼にとって日本がどう映っているか、気になって聞いてみたが、やはり関空や道路から見える「キレイな日本」だけが映っているように思えた。おせじなのかも知れないが。
ろっけん界隈で30円のコロッケを買い、食べながら歩いた。インドネシアから来たばかりの彼にとって、この商店街の様子がさびれているとも感じとれはしないだろうなぁ、と思って、どう説明しようか、と考えあぐねていた。つれあいが、曲がったままのアーケードの柱を指差し、日本語が70%の割合でまざった英語で説明しようとしている。70%の割合で誤った文法の英語で私が通訳する。そのすぐ先には、商店街に隣接して仮設住宅がある。それも説明する。
この町はもっとにぎやかだったんだよ。もっともっと多くの人々がここにやってきていた。老人も多かった。でも若者も少なくなかった。日本にはめずらしくなってしまった、さまざまな年齢層がにぎやかに集まる街だったんだ。
その人たちはどこに?
亡くなった人も多い。でも住むところが焼けてしまって、戻ってこれなくなっている人が一番多い。はるか郊外に大きな仮設がたくさんあって、みんなそこにちりじりになって住んでいるんだ。でも、ここには戻ってこれない。規制があって安価な住宅は建てにくいし、地主はマンションにしたがる。行政はそうした状況を促進しこそすれ、改善しようとはしないんだ。
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1998.01.17
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ポートタワーに上った。ぐるぐる回る喫茶店で、二人のカップの間に電子辞書を置いて、互いにキーをたたきながら話をした。
日本はひどい国だと思う。あの山の向こうにたくさんの仮設住宅があるんだ。あのへんが私の町、長田。いちばん被害がひどく、いちばん人々が戻れていない。そう、弱い人々がたくさん住んでいた場所だからだ。
その人々はどうしても、自分の街に帰りたがっている。それはね、この街はその人々が作ったからなんだ。彼らが作った、彼らの街だからなんだ。彼らこそ、この街の主人公だからなんだ。
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1998.01.17
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この国はね、あなたの国を侵略したことも、ちゃんと謝ってもいないと私は思う。他国を大事にできない国は、やはり自国の人々も大事にできないんだね。
ジャリス、君には見ておいて欲しかったんだ。日本という国がどんな国か。日本の技術が脆いこと、日本の行政が愚劣なこと、日本の人々が弱いこと。
でも、とーち。
君の街は美しいよ。
君はあきらめないと思うよ。
私は「生きてます」を再開します。
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1998.01.17
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